ジャン=リュック・エニグ『剽窃の弁明』

ジョルジュ・ペレックは、ある<手法>を用いていた。儚く、身勝手で、言い逃ればかりする剽窃者とは<アプリオリ>に正反対をゆく<手法>である。もっとも、ペレックの小説においてこれを引用と言うのは難しい。むしろ、公表し、責任を引き受けた剽窃と言うべきかもしれない(すべての引用に出典が示されているわけではないにせよ)。ペレック自身がとりわけ「『人生 使用法』条件明細書」で記述した規則と制約の複雑なシステムに従って進められる剽窃である。この「条件明細書」でペレックが明らかにしているところによれば、『人生 使用法』にはおよそ三十を数える作家および作品が、それぞれ約十回ずつ、あらかじめ決められた場所で引用されている。回文や異文字詩〔同じ文字を一度しか用いない詩〕、eの文字落とし(『失踪』)といった「ウリポ式」実作訓練のひとつであるこの小説は、「物語る機械」、「あらかじめプログラムされた語りの発明品」として構想されている。とはいえ、ペレックは、具体的な引用文の抽出をいったいどのような方法で進めていったのかけっして明らかにしてくれはいない。借用のメカニズムはいまだに解明されておらず、おそらくはけっして完璧に考え抜かれたものではないだろう。

引用が小説の筋書きを産み出したのだろうか? それとも反対に、引用はすでに出来上がった場面に挿入され、その場面が引用をいわば馴化するのだろうか? 謎である。ちぐはぐなイメージが矢継ぎ早に連続するとき、借用文は別の借用文を伴うこともあるが、ペレックはそれら借用文の端と端を巧みに繋ぎ合わせている。たとえば三十二章でペレックは、水夫たちの喧嘩を減らそうとして十九世紀の大きな港の宿屋で使われた「追い剥ぎグラス」ひとそろいを、ビュトールの『ミラノ通り』の引用に結びつけている。「外側はまぎれもない円筒形に似ているが、内側は指ぬきのように細くなっている。ふつう、この偽りの欠陥はガラスの大きな気泡で隠されている」。『白鯨』〔ハーマン・メルヴィルの小説〕から直接盗んできたこの追い剥ぎグラスは、ペレックが夢中になったあの間テクスト性作用の一例である。別の箇所には、あの「黒鉛や、無煙炭や、石炭や、褐炭や、泥炭」のように、借用したイメージそのものはビュトール以外の作者から取ったものだが、もとの出所といえばビュトールで、しかも当のビュトールはジュール・ヴェルヌの『地底旅行』第二章から盗んできた、という代物である。ペレックは盗んだ文に修正をときどき加えているが、つねにそうしているわけではない。しかし観察の結果、彼はテクストの縫合線、すなわち最初のテクストと自らのテクストの接触する辺りにとりわけ注意を払っていることが分かった。つまり、他者の身体が貫入しやすいように、しばしば列挙法を用いていたのである。この点からすると、列挙法は隠蔽に好都合な方法だということになる。

<厳密ナ意味デ>ペレックは剽窃者ではなかった。しかし、剽窃の方法は模倣しているし、おそらく、彼の盗品をすべて認めないために欠くことのできない補助的な巧妙さがこれだったのかもしれない。ペレックは<制約>を語る。しかし制約を完璧に機能させるためなら、選択を盲目的にする必要があるはずだ。ペレックが何らかの理由でラブレーやジュール・ヴェルヌ、イタロ・カルヴィーノらの文章を選んだとすれば、そうする必要があり、その必要を痛感していたからだ。これはすでに剽窃と言ってよいかもしれない。しかしお分かりのように、剽窃というには本質的なあるものがここには欠けている。<隠蔽>である。ペレックは、自らの手法のおかげで、剽窃から劇的要素を抜き取ってしまったのだ。彼はどんな倒錯行為からも手を引いている。事後にすべて(あるいはほとんどすべて)が明かされているいじょう、恥ずべきこと、非難されるべきこと、不名誉なことなど一切ないというわけだ。いっぽう剽窃者はなにも言わない。それがなんであれ、事後でさえ堅く口を閉ざす。けっして秘密を洩らさない。秘密が洩れるとすれば、偶然によるものであって、そのときのリスクは彼にとって大きくなる。なにしろ火の分け前を選んだのだ。そのうちのいくつかは、緋文字のように、生涯皮膚のうえに残る。いっぽうペレックの手法は壮大な建築ゲームであり、純粋な知の塡め込みであり、知的なウェイトリフティングである。彼の傷跡はけっして外部に晒されることなく、巧妙に隠蔽される。けっきょくペレックは楽しんでいるのだ。隠蔽しようというまさにその瞬間に、名誉挽回を望んでいるのだから。倒錯行為をすれば、自滅を、あるいは自滅の危機を受け入れることになりかねない。強迫神経症などではない。強迫神経症に冒された者は、己の強迫観念を賛美へと転化するからだ。倒錯者にとって芸術作品は救いようもなく喪失に結びついている。強迫神経症患者が飽和に結びついているように。患者は言う。「残った空虚を埋めるのです」。

とするなら、ペレックはいったい顕示の側にいるのか、隠匿の側にいるのか? 自己愛の側にいるのか、仮面の側にいるのか? じつは行ったり来たりしているのである。彼は自らの強迫観念を隠すためにゲームの規則をあからさまに表明し、華麗なる技巧でペテンを忘れさせる。彼は書いている。「またもやエクリチュールの罠が仕掛けられた。またもや私は子供になった。隠れんぼをしながら、最も恐れ、最も欲しているのが、隠れていること、見つかることだと知らない子供のように」(『Wあるいは子供の頃の思い出』)。

 

ジャン=リュック・エニグ『剽窃の弁明』(尾河直哉訳 現代思潮社 2002 p.66-70)

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