ビアンカ・ランブラン『ボーヴォワールとサルトルに狂わされた娘時代』

母はヴィラール・ド・ランスに腰を落ち着けると、義妹であるセシール叔母に、ジョルジュをこちらに来させなさい、わたしが面倒を見てあげるから、と申し出た。<中略>セシール叔母はしばらく迷っていた。夫は外人部隊に志願し、1940年6月22日の休戦の数日前に戦死した。ただでさえ悲しいのに、そのうえ息子と離れて暮らすなど彼女にはとても耐えられなかった。それでも最後には、息子の身の安全を考えて、母の申し出を受け入れることにした。というのも、脅威がより具体的な形となって表れてきたからで、彼女の住んでいるベルヴィル界隈は特にそうだったのである。

1941年11月のある晩、セシール叔母と私はリヨン駅までジョルジュを送りに行った。ジョルジュはまだ五歳半で、事情がよく呑み込めていなかった。セシール叔母は息子に<シャルロ>の雑誌を一冊かってやった。このことについては彼の著書『Wあるいは子供の頃の思い出』のなかでも触れられている。ジョルジュは行き先を記した板を首にぶら下げていた。

(ビアンカ・ランブラン『ボーヴォワールとサルトルに狂わされた娘時代』阪田由美子訳、草思社、1995、pp.125-126)

 

 

ジョルジュは生き残り、彼の両親は死んだ。幼いながらも、彼は父親が<戦争で死んだ>ことを知っていた。だが、母親のセシールに関してはどうだっただろう。わたしの両親はなにも言ってやることができなかった。というのも、彼女がどうなったのか、両親にもわからなかったからである。

ジョルジュがパリに戻ってきたのは1945年3月のこと。当時彼は九歳だった。ジョルジュはなにも訊かなかったが、きっと心のなかでは、なぜ母親に会えないのかと疑問に思っていただろう。当然、私の母としても、この無言の質問に答えないわけにはいかない。母とジョルジュのあいだでなにか会話が交わされたかもしれないし、交わされなかったかもしれない。今では二人とも亡くなってしまったから本当のところはわからない。だが、どうしても真相が知りたくなり、先日、ジョルジュが親しくしていた友人の何人かに尋ねてみた。だが、誰も私の疑問を解明することはできなかった。まるで私のいとこの人生において、そこだけぽっかり黒い穴が開いているような感じがする。それはいわば火山の噴火口。完全な沈黙によってのみ、噴火を免れているのだろう。

母親がアウシュヴィッツで死んだことを彼がいつどうして知ったかは、どこにも、彼の著書のどこにも記されていない。

(同書 p.167-168)

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