更新情報 2022年5月

数年サボっていましたが、「日本語研究論文」と「作品」を更新しました。まだ一部アクセスできていない資料もあるので、完璧な書誌情報ではありません。
更新した資料の中からいくつか紹介すると、

が機関レポジトリから参照できます。
リンク先がなかなか開かない場合は、下記リンクもお試しください。
日本語研究論文一覧には掲載していませんが、Youtubeで塩塚秀一郎氏の発表を聴けます。



生誕200 年 フロベールを読み直す

コーディネーター:小倉 孝誠(慶應義塾大学)
パネリスト:塩塚秀一郎(東京大学)、中島太郎(中京大学)、松澤和宏(名古屋大学)
塩塚はフロベールがクノーとペレックによっていかに受容されたかについて紹介する。クノーもペレックも言語遊戯で知られるウリポの作家であるが、彼らによるフロベール受容は必ずしもその側面に関わるものではなく、また、ヌーヴォー・ロマンを始めとする現代小説による受容とも異なるように思われる。袋小路、空白、リスト、実在資料、百科事典などをキーワードにしつつ、両者によるフロベール受容の意味を考えたい。

日本フランス語フランス文学会 2021年度春季大会ワークショップ3

塩塚秀一郎氏の発表は1:01:13くらいから。この発表が

  • 塩塚秀一郎「物語の彼方と手前――クノーとペレックにおけるフローベールの遺産」(『フローベール 文学と〈現代性〉の行方』 松澤和宏+小倉孝誠(編) 水声社 2021)
へ連なっているようです。

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ペレキアンのための旅行案内〜その8 イグルー

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図書館を出て、さっそく地図を片手にヴィラール=ド=ランスの探索を始めよう。と、その前にやっぱりお腹がへったので食事をすることにした。ちょうど市役所手前の広場の周りにレストランが並んでいたのでそこに入ることに。広場を眺めながらテラス席でのんびり昼食。テラス席はまだちょっと寒かった。

ところで、この広場(と思われる)について『Wあるいは子供の頃の思い出』こんな記述がある。

フランソワ・ビューについても思い出がある。彼もまたぼくにとってある種のアイドルだった。とりわけ彼をフランソワ・ビヨンと混同しなくなってからは。彼がヴィラールに滞在した際にはとてつもなくたくさんの人が集まった。今はなくなってしまったが当時は中央に噴水があった広場は黒山の人だかりでうまった。アンリとぼくは演壇に近づくことができた。アンリはイリヤ・エレンブルグの本『パリ陥落』(この本にはぼくにとって納得がいかず理解できないところがあった。これはロシア人によって書かれた本だが、パリが舞台だった。翻訳ではわからなかったが、ロシア語版では例えば「クジャス通り」や「スフロ通り」はなんと言われ、読者にどんな印象を与えたのだろうか)を持っていた。アンリが本を渡すとフランソワ・ビューは彼に献辞を書いて返してくれた。一方ぼくは握手することができた。たぶん司教と握手するよりもずっと嬉しかったはずだ。

ぼくはよく広場に新聞を買いに行った(新聞、タバコ、お土産、絵葉書を売っている店がまだ同じ場所にある)。1945年5月のある日、広場がまたもや黒山の人だかりで埋まったていたのを目撃した。お店になかなか入れず、ようやく新聞を買うことができた。ぼくは「アロブロージュ紙」を掲げて「日本が降伏した」と声を限りに叫びながら、興奮した群衆にあふれる通りを走って戻った。(第33章)

ヴィラールには他に広場らしい広場はないから、たぶんここのことだと思う。広場の名前はたぶんない。とくだんなにか特別なモニュメントがあるわけでもない、平凡なたたずまいの広場だ。作品にあるように、噴水らしきものはその名残も含めて見当たらない。ただし、写真を撮り忘れたしまったのだが、まさに新聞とタバコとお土産と絵葉書を売っている店は確かに残っていた。ここで水か何か買ったと思う。


大きな地図で見る

広場を後にしておそらく少年ジョルジュが走って戻った道をたどってみる。ちょっとした商店街を抜けると視界が一気に開けた。少し寄り道しながらも図書館でもらった地図を頼りに道を進んでいく。

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短い商店街レピュブリック通りを抜けるといっきに視界が開けた。  この日は少し曇り空。あたりには広々とした別荘が点在している。

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そんな別荘の中に、イグルーを見つけた。IGLOOと書いてあるので、あのイグルーに間違いないだろう。

伯母エステールが家族と住んでいた別荘は広い坂道をのぼりきったところから、だいぶ離れたところにあった。ヴィラールの大広場へ続くその坂道は、下の方にいくと、村に二つあるいわゆる商店街のひとつにつながるのだった。この道沿いを下った右手にはガルド農場があり、伯父ダヴィッドの弟マルク、妻のアダと二人の子供ニシャとポールが住んでいて、もう少しのぼった左手にある別荘イグルーにはダヴィッドの妹のベルト、夫のロベールと息子のアンリが住んでいた。
ぼくはイグルーがなんだったか知っていと思う。エスキモーがつくる、氷のブロックを積み上げた避難所のことだ。

 ✱


伯母エステールに、彼女の義理の妹ベルトの家イグルーへ連れってもらった日のことをぼくは覚えている。ふたりは居間にいて、ベルトはぼくと当時十二三歳だったはずの息子アンリを二階へ遊びに行かせた。どうしてかわからないが、ぼくはとても狭く急な階段のことをはっきりと覚えている。(第17章)

なんというか、デカイ。ペレック自身はイグルーの外観についてほとんど描写していないので、こちらの勝手な思い込みだったのだが、単純に「戦時中」「疎開」「隠れ家」といった状況から、もっとこじんまりとした別荘を思い描いていた。もっとも、当時のビーナンフェルド家の経済力からすればこのサイズの別荘を貸しきることぐらい造作も無いことだったのかも知れない。いや、まわりの別荘もこれぐらいのサイズだから、そもそもこれが普通のサイズなのかな。ただし、イメージと現実の差異よりも驚くべきことは、作品の中に出てきたある別荘が、半世紀以上の時を経ても当時と同じ名前で同じ場所に何事もなかったかのように存在していることだ。ああ、イグルーってほんとにあったんだ、って感じ。

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ペレキアンのための旅行案内〜その7 ジョルジュ・ペレック図書館

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ペレキアンのための旅行案内〜その6 ヴィラール=ド=ランスへ

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ほとんどいないとは思うけれど、ひょっとしたらこのブログを読んでパリに行ったついでにペレックのお墓に寄ってくれる人はいるかもしれない。ベルヴィル公園を散歩して、そういえばこのあたりにペレックの壁画があったと思い出してくれる … 続きを読む

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ペレキアンのための旅行案内〜その5 アソンプシオン通り/デ・ゾー通り

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ペレキアンのための旅行案内〜その4 ヴィラン通り

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ペレキアンのための旅行案内〜その3 ジョルジュ・ペレック通り

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ペレキアンのための旅行案内〜その2 ペレックのお墓

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ペレキアンのための旅行案内〜その1 アルスナル図書館

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