港千尋『ヴォイドへの旅』

 無用な空間を思い浮かべられないのは、建築や都市のせいではなく、言葉のせいだと気がついたのである。はたしてわたしたちの言葉は、無用なものを語るようにはできていないのだろうか。これを、無を言葉によって記述することの限界、と解釈すると、哲学的な問いになる。しかしペレックの空想は、空虚についての哲学的思考、あるいは禅問答には向かわない。そこが『さまざまな空間』と題されたエッセイの不思議なところで、彼はあくまで空間によって空間を思考しようとするのである。それは次のような無についての考察にも読み取れる。

だが、無そのものを志向するにはどうしたらよいのだろう。無について考えようとすれば、ひとはたちまちそのまわりになにか置いてしまうので、そうなると無は一個の穴となり、その穴をまたなにかで埋めずにはいられないのだ。なんらかの実行、機能、運命、視線、要求、不足、過剰…とったことがらで。

 何もない空間を考えようとすると、ひとは「そのまわりになにか置いて」しまう。あたかも空間には必ず限界があるかのように、それをそとから限界づける壁をたててしまう。すでに扱ったように、穴は空間的なメタファーだが、ペレックは「無用な空間」もまた空間的メタファーを通らずには思考することができないようだと気がつく。それでは、必要な空間には辿りつけない。穴というイメージが出現したとたんに、ひとはそこを何かで充填しようと考えてしまうからである。空間を何かで埋めてしまうという習慣や、いろいろな機能によって縛られた空間から抜け出せない。

(港千尋『ヴォイドへの旅』青土社、2012、pp.145-146)

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