写真についての記述が新たな━本質的な━役割をみせはじめるのは、ジョルジュ・ペレック(一九三六~八二)の自伝作品『Wあるいは子供の頃の思い出』においてであった。ペレックは、ジャック・ルボーとおなじく、言語遊戯的な文学集団「ウリポ」のメンバーだった。だがルーボーが詩人であるのとは異なって、ペレックは小説家であり、もともと自伝作品へのつよい関心を持っていた。そして一九七五年に『Wあるいは子供の頃の思い出』を刊行したのである。
ペレックは、子供のときに両親と死別していた。四歳のときに父を戦場で、六歳のときに母をユダヤ人強制収容所で失ったのである。したがって両親の記憶はほとんどない。しかもふたりの死がペレックの心の傷となって、彼自身の存在もよりどころのない、脆いもにとなっていた。彼は両親のクリプトをもって生きていたのかもしれない。そのような状態から何とかして脱したいと思い続けていたのだろう。二十三歳のときには、両親をめぐる自伝的な作品をこころみている。だが彼の思いが一冊の本として完成するのは、それから十五年あまりが過ぎてからであった。
ペレックには、両親の写真が何枚かのこされていた。それらの写真だけが、彼を子供時代につなぎとめる糸であり、記憶の暗い穴に光をなげかけるものであった。彼は、写真のなかから両親の物語を紡ぎだそうとする。そうすることで、現在の自分の存在を確かなものとしたいと思ったのだった。
ありそうにもない自分の思い出を補強するものとして、黄ばんだ数枚の写真や、ごくまれな証拠、取るにたりない資料しかないのだとしても、「取りもどせないもの」とわたしがずっと呼んでいたものを思い起こすことしか、選択の余地はないのだ。かつて存在し、存在を停止し、終わってしまったもの。かつては存在したが、おそらく今ではもう存在しないもの。だが、かつて存在して、それゆえに今なおわたしが存在しているものを。
両親の真実が見出せなければ自分の存在は脆いままであろう、とぺれっくは自覚していた。だから「かつて存在して、それゆえに今なおわたしが存在しているもの」をさがすしかなかった。写真はそのような失われた真実をみせてくれるかもしれないものだったのである。
だが写真は、過去がよみがえってくる幸福をもたらすことはなかった。時間の啓示をあたえることはなかった。とはいえ、ペレックの苦悩のかたちをすこし変化させたことは確かである。それまでの彼は、二十三歳のとき以来なんども自伝をこころみていたが、書きはじめてもすぐに中断していた。『Wあるいは子供の頃の思い出』のなかでは、写真の意味はあまり明確にはあらわれていない。それほど重要ではないように思われるほど、写真の記述はささやかなものである。だが、写真ゆえにペレックは書くことができ、書くことによって写真は物語をうみだした。そしてペレック自身の生も肯定されたのである。
このことを見ぬいたひとがいた。やはり子供のときに両親を失った経験をもつアニー・デュプレーである。彼女は、写真を唯一のささえとして進行していく自伝的作品『黒いヴェール』を一九九二年に発表し、その冒頭で『Wあるいは子供の頃の思い出』の一節を象徴的に引用したのだった。
アニー・デュプレー(一九四七~)は、八歳のときに父と母を同時に失った。両親は浴室で一酸化炭素中毒のために死亡したのである。幼いデュプレー自身がその事故の発見者となった。その衝撃によって彼女は記憶喪失におちいり、それまでの八年間の記憶をすべて失ってしまう。記憶は取りもどされないまま、三五年の歳月がすぎる。
父親は写真家だった。したがって多くの写真がのこされていた。デュプレーは、長いあいだ、それらの写真を見ることさえ拒んでいた。両親にまつわるものすべてを忘れようとしていたのである。だが三五年めにして、はじめて写真を手にとる。そして自分の子供時代について書いてみようと考える。写真が何かを語りかけてくれるかもしれない、と期待したからであった。
わたしはただ、これたの写真をみつめていたい。写真が語りかけることに耳をかたむけたい[…]。もし語りかけてこなければ、わたしは口をつぐむだろう、ふたたび口をつぐむだろう…。
彼女は写真をみつめた。しかし、子供時代の記憶はよみがえってこなかった。だが写真をながめているうちに、それらの写真を撮影した父の思考をよみとり、また写真にうつされている母のまなざしから母の思いを感じとり、そうして父と母それぞれの心の物語をかいまみることができたのだった。そのときデュプレーは「自分が今いる場所」と「これからたどるべき道」とをしったのである。
あなたたち[両親]の死によって、わたしはあなたたちをいつまでも胎内にやどすことになった。あなたたちはわたしのなかに住んでいる。
こう書くデュプレーはおそらく両親のクリプトをもちつづけているのだろう。だが、父親の写真を直視し、三五年前の事故について率直に語り、自分の心の叫びをつづった本を書き終えた今、クリプトの扉はすこしだけひらいたのであろう。デュプレーは、自分が今ようやく両親の喪の作業をはじめたことを知り、二〇年後にはその作業を終えるだろうと確信する。そして、おなじような思いをペレックのなかに発見した彼女は、彼のつぎのような一節を自分の本の冒頭で引用したのだった。
わたしは書く。なぜなら、わたしたちはともに生きたのだから。わたしは書く。なぜなら父母は、消すことのできぬ刻印をわたしのなかに残したのだから。その痕跡が書くことなのだから。書くことは父母の死の思い出であり、わたしの生の肯定なのである。
ペレックもデュプレーも、写真の存在ゆえに書きはじめることができ、書くことによって、喪のための道と自分の生の意味とを見出したのだった。そのことをデュプレーは、『黒いヴェール』の続編である『あなたに手紙を…』(一九九三年)のなかで、つぎのように語っている。父の写真こそが、自分に道をしめし、死にたいする自分の思いをはっきりとさせたのである、と。
写真は、デュプレーとペレックの記憶の闇を照らしだす光にはならなかった。だが、彼らの苦悩のかたちを明確にしてみせることによって、苦悩そのもののなかに存在の光がたたえられていることを告げたのである。
石川美子『自伝の時間』(中央公論社 1997 pp.138-142)