ペレキアンのための旅行案内〜その6 ヴィラール=ド=ランスへ



ほとんどいないとは思うけれど、ひょっとしたらこのブログを読んでパリに行ったついでにペレックのお墓に寄ってくれる人はいるかもしれない。ベルヴィル公園を散歩して、そういえばこのあたりにペレックの壁画があったと思い出してくれる人もいないとは限らない。旅行でパリを訪れることはとてもやさしいことだ。けれど、ここからは旅の難易度はぐっと高くなる。日本人観光客はほとんどいないと思う。ガイドブックにもあまり情報はない。よほど気合をいれないと訪れることは難しいかもしれないが、いつか誰かが旅をするときにこのブログが役に立てばいいなと思う。

旅の目的地はヴィラール=ド=ランス。第二次大戦中、ユダヤ人への迫害が強まるパリを逃れ、ペレックが疎開していた場所だ。パリからヴィラール=ド=ランスに行くには、まずはパリ リヨン駅からグルノーブルへ向かう必要がある。それは、ペレックが母と離れ疎開した1942年頃と変わっていない。ペレックが疎開した背景については、従姉妹にあたるビアンカ・ランブランの著書『ボーヴォワールとサルトルに狂わされた娘時代』に詳しい。

 

 父はパリに残りたがっていた。パリでなら、なにかしら商売ができるからである。もうじき家族を養うためにまとまったお金が必要になる。この迫害の時代に一番役にたつのはなんといってもお金なのだから。父はそう考えていた。母はとても脅えていて、一刻も早くパリを離れようと父を説得していた。

とりわけ恐ろしかったのは、1941年3月21日の政令で、これにより私の家族は、私を含めて全員フランス国籍を剥奪された。私たちは無国籍者となり、いつ逮捕され、強制収容所に送られてもおかしくない状況に追い込まれたのである。私だけは、夫が生粋のフランス人だということで、7月の修正政令によってフランス国籍を回復した。

父がようやくパリを離れることを承知したのは、1941年6月に奇跡的に検挙を免れた後のことだった。その日、いつも父が事務所に行くときに利用する地下鉄のカデ駅で、身元検査が行われた。警察は通行人を全員呼び止めて身分証明書を確認し、ユダヤ人と思われる者を連行した。幸いなことに、父は友人は会う約束があり、ひとつ前の駅で降りて難を逃れた。だが、さすがの父もこのときばかりは恐れをなし、パリで仕事を続けるのをついに断念した。

父は母と妹を連れ、ヴィラール=ド=ランスへ向かい、すでに滞在していてた叔母達と合流した。

ベルナールと私は二人でパリに残った。といっても、完全に二人きりではない。ベルナールの両親はまだヌイイに住んでいたし、私の祖父母も、ジョルジュ・ペレックの母親であるセシール叔母も、ベルヴィルでほそぼそと暮らしていた。

祖母は相変わらず小さな食料品店を営んでいた。祖父はシナゴーグへ行き、髭の中でぶつぶつと言いながら、イディッシュ語で友人たちと議論していた。セシール叔母は美容院を経営していたが、客がいないので仕方なく店を閉め、シュレーヌのジャズ〔時計工場〕へ働きに行っていた。

母はヴィラール・ド・ランスに腰を落ち着けると、義妹であるセシール叔母に、ジョルジュをこちらに来させなさい、わたしが面倒を見てあげるから、と申し出た。母はジョルジュをことのほか可愛がっていた。というのもジョルジュは、母が昔良く面倒を見ていた大好きな弟の子供だったからである。
セシール叔母はしばらく迷っていた。夫は外人部隊に志願し、1940年6月22日の休戦の数日前に戦死した。ただでさえ悲しいのに、そのうえ息子と離れて暮らすなど彼女にはとても耐えられなかった。それでも最後には、息子の身の安全を考えて、母の申し出を受け入れることにした。というのも、脅威がより具体的な形となって表れてきたからで、彼女の住んでいるベルヴィル界隈は特にそうだったのである。

1941年11月のある晩、セシール叔母と私はリヨン駅までジョルジュを送りに行った。ジョルジュはまだ五歳半で、事情がよく呑み込めていなかった。セシール叔母は息子に<シャルロ>の雑誌を一冊かってやった。このことについては彼の著書『Wあるいは子供の頃の思い出』のなかでも触れられている。ジョルジュは行き先を記した板を首にぶら下げていた。赤十字の婦人たちが彼のような子供たち(おそらく全員<戦争孤児>)に付き添って列車に乗り、目的地で降ろしてくれるのである。旅の終着点であるグルノーブルでは私の母が待っていて、彼を引き取ることになっていた。*1

引用部分の、「父」はペレックの養父ダヴィッド・ビーナンフェルド、「母」はペレックの実父の姉で養母でもあるエステール・ビーナンフェルド、「セシール叔母」がペレックの実母。

この本はボーヴォワールの教え子だった著者が、サルトル、ボーヴォワール双方の愛人となった三角関係を恨み辛みとともに告白する大変うんざりな本なのだけど、ナチス・ドイツ占領下のフランスを生き抜いたひとりの知識人女性の回想録として読むと、それなりにおもしろい。なにより著者はジョルジュ・ペレックの数少ない肉親なのだ。細部には記憶違い、勘違いと推測される記述があるものの、この本はペレックの子供の頃を知る貴重な証言でもある。

ビアンカ・ランブランがリヨン駅で見送ったジョルジュ・ペレック。赤十字の婦人により行き先を記した板をぶら下げられる姿は、『禁じられた遊び』のラストシーンそのままだ。
http://youtu.be/DgKyFWzDp-c?t=7m29s

ペレック自身は『Wあるいは子供の頃の思い出』の中で、リヨン駅での「出発」の思い出を繰り返し書いている。

母については、ぼくに残っている唯一の思い出は、彼女がリヨン駅までぼくを送ってくれた日のものだ。ぼくはそこから赤十字の列車でヴィラール=ド=ランスに向かった。骨折などしていなかったのに、ぼくは腕を吊っている。母はぼくに『落下傘兵シャルロ』という題のチャップリンの本を一冊買ってくれる。表紙のイラストでは、パラシュートの吊りひもはなんとチャップリンのサスペンダーになっているのだ。(第8章)





ある日、母は駅までぼくを送ってくれた。1942年のことだ。リヨン駅だった。ぼくに絵本を買ってくれた。チャップリンの絵本だったはずだ。列車が動き出すときホームで白いハンカチを振っていた母が目に入った、ように思う。赤十字と、ぼくはヴィラール=ド=ランスに向かった。(第8章)





出発
母がリヨン駅までぼくを送ってくれた。ぼくは6歳だった。母はぼくを自由地帯のグルノーブルに向かう赤十字の列車に預けた。母はぼくにチャップリンの絵本を買ってくれた。表紙はステッキ、帽子、靴にちょび髭姿のチャップリンがパラシュートで飛んでいるものだ。パラシュートはズボンのサスペンダーでチャップリンとつながっていた。(第10章)

「シャルロ」はチャップリンのフランス語名。引用二番目の太字部分は1959年頃にペレックが書いた文章が『Wあるいは子供の頃の思い出』で採用されている。3つの引用文のうち、書かれた時系列で言うと太字部分がもっとも古い。

リヨン駅での別れの後、ペレックは二度と母に会うことはなかった。ペレックの母セシルは、妹のファニー、父のアーロンと共に1943年1月23日の一斉検挙で捕まり、ドランシー収容所を経て1943年2月11日にアウシュヴィッツへ送られたからだ。

ペレックの母との思い出は極めて不確かだ。よく知られていることだが、ペレックが母との記憶を媒介するものとして取り上げているチャップリンの絵本は1942年には存在し得ない。フィリップ・ルジュンヌはチャップリンの絵本がナチス・ドイツ占領下のパリで売られていた可能性は極めて低いと指摘している*2。ヒットラーを皮肉った1940年の『独裁者』公開により、チャップリンの全作品はドイツ支配下のヨーロッパでは公開禁止になった。また、「チャップリンの軽業大冒険シリーズ」には『落下傘兵シャルロ』という作品はないという。一方、『探偵シャルロ』という本の表紙にはパラシュートで降下するチャップリンのイラストがある。パラシュートの紐はチャップリンのサスペンダーとつながっていはいない。けれど、これは1935年に刊行されたものだった。パリ解放後の1945年に復刊されている。ペレックは1945年か46年にこの再版されたものを読んだのだろう、とルジュンヌは推測している。リヨン駅で買い与えられのはチャップリンの絵本であるはずはない。この事実は、ペレックは母との唯一の思い出としているリヨン駅での別れ自体、まったく記憶していないのかもしれない、ということを予想させる。『Wあるいは子供の頃の思い出』という作品の根幹となる思い出の存在自体がゆらいでいる。



ペレックが疎開したときは、パリ リヨン駅からグルノーブルまで一晩くらいかかったのかも知れない。今はTGVで3時間くらいで着く。グルノーブルに行くにはTGVの直行便を利用するか、リヨンで在来線に乗り換える方法がある。乗り継ぎが悪いので直行便がおすすめ。チケットはSNCFのサイトで予約できる。おっさんなので迷わず1等席を選び、予約するとたったの50ユーロでチケットが取れた。早めに予約すると安く席が抑えられるみたいだ。



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リヨン駅で朝食を買い込んで、6時41分発のTGVに乗り込む。列車は田園地帯を駆け抜け、9時37分にはグルノーブル駅に着く。



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グルノーブルはあいにくの曇り空。ここからヴィラール=ド=ランスにはバスが出ている。日本に置き換えると、越後湯沢まで新幹線を使い、苗場までバスで行くのになんとなく似ている。グルノーブル市内をまわるバス停と、ヴィラール=ド=ランス行きのバス乗場が間際らしく迷ってしまった。グルノーブル駅の東口に出て、駅舎を背に左手の建物がチケット売り場。さらにその奥にバス停がある。バスの時刻表はここで確認できる。チケットを買い出発直前のバスにぎりぎり飛び乗る。約一時間でヴィラール=ド=ランスだ。


バスはヴェルコール山塊の絶壁に向かい、その脇から山道に入り、一気に高度を上げていく。途中、極端に道幅が細い天然の関所のような場所を抜けていく。第二次大戦中、レジスタンスがこの地を隠れ場所にした理由がよくわかる。ペレックの伯父ダヴィッド・ビーナンフェルドは自転車でヴィラール=ド=ランスとグルノーブルを一日で往復したというが、とても信じられないほどきつい上り坂だ。山道を抜けると、一気に視界がひらける。両脇を山に囲まれたヴェルコール高原だ。ラン=ザン=ヴェルコールを通り過ぎ、ヴィラール=ド=ランスはすぐそこだ。



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*1:ビアンカ・ランブラン『ボーヴォワールとサルトルに狂わされた娘時代』(阪田由美子 訳,草思社,1995) pp.125-126
*2:Philippe Lejeune, La Mémoire et L’Oblique, P.O.L,1991 p.82

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