ペレキアンのための旅行案内〜その7 ジョルジュ・ペレック図書館

ヴィラール=ド=ランスに着いた。さて、次はどうしよう?

1992年夏、『ぼくは思い出す』の痕跡を求めてパリに逗留したおり、訳者は作家の租界地まで足を延ばす機会を得た。ヴェルコール高原に向かう長距離バスがグルノーブル西郊に聳え立つ絶壁のあわいに突入しはじめたとき、ティエラ・デル・フエゴの遠い幻想が間近に迫った。 主ばかりが入れ代わった「イグルー」も「レ・フリマ」も、大岩さえもが、あたかも虚構であるかのように半世紀昔を再現し続けていた。ヴァカンス用の山小屋風に改装されたコレージュ・テュレンヌの庭の木立にはアルプスの微風が吹きわたり、葉裏が日に輝いていた。「子供の頃の思い出」にはその風光を愛でる表現は一言半句も見当たらない…

『Wあるいは子供の頃の思い出』訳者解説の一節だ。ヴィラール=ド=ランス訪問の目的はもちろんこの作品に登場するペレック縁の地を訪れることだ。事前にいろいろ調べてみたけれど、たいしたことはわからなかった。情報はこの訳者解説だけだった。行けばなんとかなるだろうと思って気楽にここまできてみた。 幸いにしてバスの終点は街の中心。観光案内所は目の前だ。

 Office de Tourisme de Villard de Lans

なにはともあれ観光案内所に行ってみることにする。ここ、旅行前にWebから問い合わせ見たんだけど、返事なかったんだよな。ペレック?しらねーって言われたらどうしよう、とドキドキしながらなかに入る。受付の女性に拙いフランス語でなんとか用件を伝える。ペレックマップみたいなものが用意されてるんじゃないかと期待したが、残念ながらそんなものはなかった。受付の人もペレックの名前ぐらいは知ってるという感じだった。がっくりしたが、しばらく待っていると、どこかに電話をかけながら、地図にペレックが暮らしていた家の場所を描いてくれた。裏手にペレック図書館があるから行ってみな、と教えてくれた。 コインロッカーが見当たらないので、観光案内所に荷物をおかせてもらって、街の探索に出かけることにする。ついでに案内所でこの街の読み方を聞いてみた。Villard de Lansは翻訳ではヴィラール=ド=ランスになっているけど、ヴィラール=ド=ランと表記されているWebもたまに見かける。受付の人によると、どっちでもいいそうだ。ランと呼ぶ人もランスと呼ぶ人もいる。たまたまそこにいた二人はともにヴィラール=ド=ランスと言っていたので、このブログでもヴィラール=ド=ランスと表記しよう。

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案内所の奥がジョルジュ・ペレック図書館だ。ベルヴィルのクーロンヌ図書館のような立派な壁画こそないけれど、『BIBLIOTHEQUE GEORGES PEREC(ジョルジュ・ペレック図書館)』の堂々たる看板に胸が熱くなる。日本ではまだまだマイナー作家なのに、図書館の名前にまでなって… ジョルジュ・ペレック図書館はアルスナル図書館とは違って、ペレックの専門的な資料が集まった研究施設というわけではなく、普通のちいさな市立図書館だ。二階は子供向けの図書、一階は一般書。日本の漫画もたくさん置いてあった。

冊数は少ないながらペレックコーナーもちゃんとある。『Wあるいは子供の頃の思い出』も。

冊数は少ないながらペレックコーナーもちゃんとある。『Wあるいは子供の頃の思い出』も。



ペレックのことを勉強している、と司書さんに自己紹介したらとても喜んでくれた。たーまーに、同じような目的の人が来るらしい。受付の奥に飾ってあった手作り感あふれるペレックのポスターを写真に撮らせてもらった。撮りやすいようにわざわざ奥から引っ張り出してきてくれた。

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ペレックが暮らしていた家とか回ってみたいんだけど、なんか地図とかないですかね?と司書さんに訊いてみたら、ぽんっと少し古ぼけた小冊子をくれた。

anniversaire_perec

おおっ、と手にとって見るとどうやら2002年3月19日〜30日にヴィラール=ド=ランスで行われたジョルジュ・ペレック没後20週年記念展のカタログらしい。ページを一枚めくってみると、簡単な謝辞とともに、記念展への協力者一覧が掲載されている。Eric Beaumatin, Ela Bienenfeld, Robert Bober, Claude Burgelin, Geneviève Burlet, Elisa Burlet-Parendel, Janine Carlier, Nathalie Chabert, Gérard Charbonnel, Mr Mme Charlemagne, Henri Chavranski, Jean-Jaques Collet, Nathalie Costet, Danielle Constantin, Gérard Even, Karen Faure-Comte, Nicole Giraud, Pierre Guillot, Daniel Hyronde, Denise Jaquemin, Christelle Herloc’h, Bianca Lamblin, Ingrid Lanthelme, Sophie Lebel, Philippe Lejeune, Maryvonne Longeart, Simone Lopez, Babette Mangolte, Brigitte Meylan, Isabelle et Arnaud Nicoladzé, Michèle Papaud, Mme Pennec, Silvana Perazion, Paulette Perec, Aline Poudret, Francis Richard, Anne Roche, Anne Roullon, Alain Roth, Anne-Marie Sestier, Françoise Torès, Thierry Vassal, Albine Villeger, Nicole Voltz, Philippe Zanin.そうそうたるメンバーだ。著名な研究者や『Wあるいは子供の頃の思い出』に登場するペレックの親類までが名を連ねている。記念展の様子はもはや知る由もないが、このメンバーをみる限りかなり大規模なイベントだったようだ。

当時のヴィラール=ド=ランス市長Jean-Pierre Bouvierの挨拶文に続き、ペレックの短い文章が載っていた。

ぼくのクリスマスの一番の思い出

1950年のクリスマス休みに、ぼくはスキー合宿に参加した。オーストリアのサン=アントン駅に向かった。長旅の末、宿泊場所のロッジについたのは午後もだいぶ暮れた頃だった。 ぼくは14歳だった。スキーは小さい頃、戦争中ヴィラール=ド=ランスに疎開していた際におぼえた。スキーをするのはその時以来だったけど、絶対にうまく滑れると信じ込んでいた。さっそく友達二人とスキー場の一番難しいコースに挑戦することにした。ゲレンデが3つ、リフト、ロープウェイ、Tバーリフトを乗り継いでいくとだんだん難易度の高いコースになっていく。 一番上についた時にはもう4時近くになっていた。ゲレンデには誰もいなかった。自分のスキーの腕前を過信していたことに、すぐに気づいた。Tバーリフトから眺めた分にはたいして難しくないだろうと思っていたけれど、実際には傾斜は深く、コブがそそり立っているのがわかった。足が震えて、ちょっと無理だなと思うコースのさらに少なくとも3倍はきついコースだった。

友達はぼくに何も言ってこなかった。日が暮れ始めていた。早く降りないとゲレンデは闇に包まれてしまう。初めのうち、二人はぼくを待っていてくれたが、なんども 転ぶうちにだんだんと遅れ始めた。そのうち置いてきぼりにされてしまった。二人はストックを振ってこちらに合図をおくると、次のゲレンデに続く道に進み、高く黒い樫の木 の影にかくれて見えなくなってしまった。

広大な雪原にたった一人取り残されてしまった。さっきまではTバーリフトの稼働音が聞こえ、降りれば誰かいるだろうという安心感があった。しかしその音も聞こえなくなってしまった。完全に夕闇に包まれた。コブが見えなくなり、ゲレンデは起伏がなくなだらかに見えた。

ぼくは斜面にたいしてほぼ平行に進み、2~30m先でどうにか向きを変え少しずつ降りていった。しばらく下ったところ、不意に2~3m近く激しく転ん で、雪の中に体が半分埋もれてしまった。左のスキーが外れて、ものすごい速さで滑って闇の中に消えていってしまった。

どうにか立ちあがったけれど、ミトンの手袋は片方なくなり、服の中は雪だらけになっていた。カーウッドの冒険小説を思い出し、想像で頭がいっぱいになった。 凍傷に侵された指は壊疽し、切断手術が必要だ。狼の群れが襲ってくる。イグルーを作って、雪の中で可能な限り深く縮こまなければならない。ぼくは眠気と足先からのぼってくるうっとりするような麻痺と全力で戦わなければならない。

少したって、どうにか気を取り直した。仲間が助けを呼んでくれるはずだ。トーチを携えたガイドたちとセントバーナード犬による捜索隊が組織されるだろう。早く見つかるように、リフト乗り場まで降りることにした。

やわらかい雪の中を手探りで進み、どうにかリフトの鉄塔を見つけることができた。ぼくは残ったスキー板に座り、ストックを使ってどうにかブレーキをかけながらゲ レンデの下の方へ滑っていった。リフト乗り場の小屋には鍵がかかっていた。たぶんロープウェイはまだ動いているはずだけど、乗り場がどこにあったか思い出せな かった。

右手2~300m先の光に気づいた。助かったと思った。ロープウェイ乗り場に建てられた石造りの大きなホテルだった。どういう訳か行きにはこのホテルに気づかなかったのだ。

ぼくは周りの人に状況を説明したが、明らかにぼくの言っていることは伝わっていないようだった。しばらくするとフランス語を話す女の人がやってきた。彼女はぼくに着替えととスリッパ、ホットワインを手配してくれた。まだ6時になったばかりだと気づいて唖然とした。仲間とはぐれてから何時間 もたったと思っていたのだ。食堂で夕食が用意され、一人小さなテーブルで食べた。それから屋根裏の寝室に連れて行かれた。たぶんヴァカンスのため集められた臨時従業員の部屋なのだと思った。ぼくが寝てから部屋に戻り、ぼくが起きる前にはもう仕事に出ていたからなのか、ぼくはだれとも会わなかった。

翌朝、カフェオレとブリオッシュが出された。ぼくの服はすっかり乾いて暖かくなっていた。ホテルの支配人呼ばれ、執務室に行った。支配人は、リフト乗り場の係員が小屋の数 m先にまっすぐ雪に突き刺さっていたぼくのスキー板を見つけたと教えてくれた。持ち合わせがないんです、親類に手紙を書いてお金を送ってくれるよう頼むので、それ まで待ってください、と支配人に頼んだ。ところが彼は、今日はクリスマスだよ、神の子イエスの記念日に君をお招きできて嬉しいよ、と言ってくれた。そして彼はぼくにロープウェイのチケットを差し出し、このゲレンデは君にはまだと難しいので、何日か練習してからまたチャレンジしてみなさいとアドバイスしてくれた。

この文章はヌーヴェルオブセルヴァチュール(1978年12月23−29日737号 pp.60-61)に発表されたものとのこと。ミシェル・シメオンの挿絵が二点掲載されていたらしい。雑誌の特集のテーマは「あなたのもっとも美しいクリ スマスの思い出を語ってください」というもので、この作品はこのお題に答えたもののようだ。ちょっと胸がほっこり温かくなるいい話だが、言うまでもなく創作である。ベロスによれば1949年12月にザンクト・アントンに滞在していたのは事実のようだが…。

こんな感じでひっぱりだしてくれた。ちょっと逆光気味になるし、手が邪魔だったんだけど司書さんの心遣いに感謝。

こんな感じでひっぱりだしてくれた。ちょっと逆光気味になるし、手が邪魔だったんだけど司書さんの心遣いに感謝。



続いて、エラ・ビーナンフェルドの短い文章。読んでも良くわからなかったけど、ざっくり訳すとだいたいこんな感じ。

サバイバルの源泉

ジョルジュ・ペレックは1982年3月3日に亡くなりました。46歳になる誕生日の数日前のことでした。彼は数多くの作品を残しましたが、そのどれもが魅力的で、おどろくほど多彩です。今日では、彼の作品は二十世紀でもっとも独創的で、緻密な、心を打つ文学作品の一つと認められているほどです。彼の創作は文学の一ジャンルに留まらず、物語、演劇、詩、記憶の探求、日常の探求にまで及びます。自分自身、そして自身とわかちあったものをテクストに書き記す営みとも言えます。作品を読めば、とてつもなく豊かで斬新な探求があちらこちに散りばめられていることがわかるでしょう。

ヴィラールの人たちにとって、ペレックが、没後二十年の機会に凱旋を果たしたことは特段驚くべきことではないことかもしれません。この作家は私達の読む方法を根本的に変えてしまったのですから。ヴィラール=ド=ランスでのペレックの今回のイベントは、没後記念式典の類とはまったく別のものになります。ビーナンフェルド夫人の言葉を借りると、まず最も大切なことはサバイバルの原点に立ち返ることです。より正確に言うならば、個人史的なこととだけでなく、文学的なサバイバルの原点に戻るということです。

ペレックはパリに定住したポーランド系ユダヤ人移民の子として生まれました。志願兵となった父は1940年に戦死しました。母はアウシュビッツに送ら れ、二度と戻ってくることはありませんでした。母の移送前、ペレックは赤十字に預けられ、ヴィラール=ド=ランスへ疎開し、伯父のダヴィッドと伯母エス テールに引き取られました。1942年の夏から終戦まで、ペレックは多くの親戚たちとともにあちこちの別荘や寄宿舎で疎開生活を送っていました。ヴェ ルコールで暮らしていたこともありました。その頃の話は『Wあるいは子供の頃の思い出』(1975)で何度も言及されています。この作品では、自伝部分と スポーツが法として人々を支配する強制収容所のような国家を描いたフィクション部分が章ごとに交互に展開され、互いに響きあうことにより、作者の生涯が極 めて独創的かつ整然と描かれています。

1967年のウリポ(潜在文学工房:レイモン・クノーとフランソワ=ル=リヨネにより設立)加入により開花した、制約というジョルジュ・ペレックがあえて選択した創作手法は、まさに言語を絶する困難でしたが、彼はことごとくその困難を乗り越えました。

<中略>

この2002年春に開催されるペレックの記念展は、著者のテクストがすぐれて証明するヴィラールでの滞在の痕跡を探求し、再評価し、質疑応答することを狙っています。この機会にジョルジュ・ペレックの名前がヴィラール=ド=ランスの市立図書館にジョルジュ・ペレックの名前が採用されたことを、とても光栄で嬉しく思います。まさにめぐり合わせでしょうか。E.B

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そして、なんとついに求めていたものが!ペレックマップを手に入れた。イグルー、レ・フリマに、ル・クロマゴまで載っている。『Wあるいは子供の頃の思い出』の舞台が残っているんだ。これはほんとうにうれしくって、司書さんになんどもお礼を言った。このパンフレットはヴィラール=ド=ランスを訪れるペレキアンには必携の書だ。2012年に訪れたから記念展はちょうど10年前に行われたことになる。10年の時を経てこの地図を手に入っためぐり合わせに興奮を隠せなかった。まだ残っているかどうかわからないけれど、ヴィラールで『Wあるいは子供の頃の思い出』めぐりをしたい人はペレック図書館で聞いてみるといいですよ。


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