ペレキアンのための旅行案内〜その4 ヴィラン通り


ヴィラン通り
ぼくたち家族はパリ二十区のヴィラン通りで暮らしていた。ヴィラン通りはクーロンヌ通りから始まり、ゆるいS字を描きながらトランスヴァール通り、オリヴィエ・メトラ通り(この交差点は、路上からパリ全体を見渡せるギリギリの場所で、ぼくは1973年の7月、ここからベルナール・ケイザンヌと映画『眠る男』のラストシーンを撮った)へつながる急な階段まで上る短い通りだ。ヴィラン通りは今日ではそのほとんどが取り壊されてしまった。(『Wあるいは子供頃の思い出』第10章)

ペレックは幾度となくこのヴィラン通りについて言及している。けれど、ペレックが書いている通りヴィラン通りは70年代の再開発によって当時の姿はほとんど失われてしまっている。ペレックにとってここはとても重要な場所だけれど、その痕跡はもうどこにも残っていないのだろうな、とあまり期待せずに訪れてみた。ところがベルヴィルに入った途端、ペレックの壁画が突然現れたのでびっくり。

クーロンヌ図書館

アパルトマン、というよりは団地と呼んだほうがふさわしい集合住宅の一階と二階がクーロンヌ図書館になっている。一階は一般向け、二階は子供向け。この日は休みだったので中に入れなかったのだけれど、あとで調べてみたら所蔵点数54,000点、アフリカ、現代アラブ関連の資料が充実しているそこそこ(?)の規模の図書館だ。 地区協議会と住民たちにより、この図書館の外壁に壁画を描こうという計画が立ち上がったのは2007年頃のことだ。壁画のテーマには、このベルヴィル地区で生まれ育ったと作家ペレックが選ばれた。2008年2月にはパリ二十区の支援が決まり、Fédérica Nadaluttiによる壁画が完成したのは2009年のことだ。

クーロンヌ図書館の壁画

壁画にはペレックの肖像、ジグソーパズル、そして散りばめられたアルファベの中に、ペレックの作品が埋め込まれている。W ou le souvenir d’enfance(Wあるいは子供の頃の思い出)、La disparition(煙滅)、写真では見えないが側面にまわるとUn cabinet d’amateur(美術愛好家の陳列室)もある。二階の子供向け図書館入り口の頭上には、Je me souviens(ぼくは思い出す)が描かれている。

それにしても、団地にJe me souviensはよく似合う。なんとなく、堀江敏幸の『郊外へ』に出てきたフランソワ・ボンの話を思い出した。堀江によれば「お世辞にも著名な作家とはいえない」フランソワ・ボンは、1991年パリ郊外のラ・クルヌーブ市にあるジャック・ブレル高校で文章教室の講師を務めることになった。生徒の大半は郊外型団地に住む、必ずしも学力の高くない十七歳の高校生たちだ。「彼らにはラ・クルヌーブを憎み、そこに閉じ込められているじぶんたちの日々を呪うという共通点があった。この基本的な心象が、文章教室の中で大きな意味を持ってくる」という。

参加者には発想の手掛かりとして、何人かの作家の文章が配布された。ある意味で、これらのテキストの選択にこそフランソワ・ボンの理想がこめられていたと言ってよく、じじつそのうち何編かは彼らの内面に閉ざされていた核を刺激し、自己表現へのまたとない契機となった。 なかでもジョルジュ・ペレックの『ぼくは覚えている』は、それまでなにをどう書いていいものかわからず途方にくれていた彼らに、形式、内容の両面で、絶大な影響を及ぼした。冒頭から巻末まで、おなじ書き出しの文章が箴言のようにならべられたこの著名な作品は、母親と親戚三人をアウシュヴィッツで亡くしたペレックの、封印されていた思い出を、あってはならない思い出を、あるはずのない思い出までをもときに生々しく現前させる、表向きの軽さと裏腹な、とんでもなく重い本なのだが、もちろん彼らがペレックの諸作に親しんでいるわけでもないだろうし、ましてその作者の伝記的な事実を知っていたわけでもないだろう。彼らはただ、そういう書き方で、記憶をたどればなにかが見つかり、そのなにかを言葉にできそうだとの啓示を得たにすぎない。「郊外は忘却の場、忘れられた場所だ」と、じぶんの口から言わざるをえない、ニュアンスを欠いた起伏のない日々を忘却から救う手立てがそこに示唆されたのである。(堀江敏幸『郊外へ』pp.97-98)

とくだん低所得者層向け住宅という訳ではないと思うけれど、Je me souviensと描かれた団地を見ていると、なんとなくこの話を思い出した。

ところでこのフランソワ・ボン、最近では「お世辞にも著名な作家とはいえない」とばっさり言い切ってしまうのは難しいようだ。『郊外へ』の初版は1995年だけど、それから15年以上たった今、塩塚秀一郎によればボンは「フランス現代作家のなかでも特異な位置を占め、また重要性も際立っている」とのことだ。ペレックが提唱した概念〈並以下のもの〉infra-ordinaire、その実践である「日常性の探求」という面で、ボンはペレックの思索や企てを継承する作家として位置づけられている。 フランソワ・ボンとペレックの関係について、塩塚秀一郎「フランソワ・ボンによる〈並以下のもの〉の探求ーペレックの「社会学的仕事」を受け継ぐ試みー」(人文社会科学研究52号、早稲田大学創造理工学部、2012)から気になったところを少し引用してみる。

しかし、ボンがペレックのテクストを好んで用いたのは、それが平易な形式を備えているという理由によるだけではない。ペレックは「書くこと」の持つ重要な意義を啓示している、とボンは考えているようなのだ。たとえば、ペレックのとある未刊の企画についてボンはこう記している。「〔文章教室において〕長い間、私はお気に入りの練習を行うだけで満足していた。ジョルジュ・ペレックの『ぼくが眠った場所』である。この練習のお陰で、書くという行為が必然的に果たす機能と、描かれる前には存在しておらず書かれることによって現れるものが、はっきり分かるようになるのだ」。つまり、「書くこと」によって書き手は何かに気づく、その「何か」は書かれる以前には認識されていなかったもので、書かれることによってはじめて気づかされる、そうしたことをペレックのテクストによって実感できる、とボンは考えているのである」(p.23)

文章教室の試みを紹介する本の中で、フランソワ・ボンはペレックのもつ現代的意義を次のように総括している。「ペレックの存在は現代の試みのあらゆるところで感じられる。死後二十年を経た今、重要なのはその影響ではなく、彼が切り開いた領域であり、そのために彼が作り上げた語彙の大枠である」。本稿で取り上げたボンの著作、『高速道路』、『鉄路の風景』、『デーウ』は、いずれも社会問題への関心や怒りが全面に押し出されており、そうしたものが希薄に見えるペレックの試みとは異質であるとも言えよう。だが、ボンは「社会問題への取り組み」といった点でペレックから具体的影響を受けたわけではなく、ペレックが「切り開いた領域」において、ボン自身の資質にあった探求を展開しているのである。(p.34)

「存在するものについて、我々が何者かについて、ありふれたものが語ってくれるように、意味を言葉を与えるには、どうしたらいいのだろう」、ペレックはこの問に具体的で普遍的な答えは提示していないが、ボンはペレックの問題意識を受け継ぎ、とにもかくにも視線に無理強いする、つまりは「技法」や「制約」を貸して現実を眺めることにこそ、ペレックが残した最良の遺産をみている。(p.35)

教材としてペレックの作品を利用していくうちに、その作品に引き込まれ、自らもその問題意識や試みを受け継いでいくボン。フランソワ・ボンの作品はローリング・ストーンズの伝記*1しか日本語になっていないみたいだけれど、こんなふうに書かれると、読んでみたくなる。

星印

クーロンヌ図書館斜向かいの建物。ユダヤ人街の名残なのか、たんなるあとづけ
なのかわからないが、商店の古い看板とシャッターに刻まれた星印にどきっとする。



さて、ヴィラン通りに入るとそこにはやはりなにもない。なにも残っていない。ペレックが両親と暮らした24番地の家も、母が働いていた美容室も残っていない。そこには、一昔前のおしゃれマンションが建っているだけだ。(まあ、これはこれで良さ気な建物なんだけど)



両脇をこんな感じのマンションに挟まれ、進んだ先の突き当りは起伏の激しいベルヴィル公園になっている。このヴィラン通りをペレックは何度となく訪れ、変わりゆく姿を書き残している。その試みは、塩塚秀一郎「ペレックと廃墟ー〈並以下のもの〉へのまなざしー」(人文社会科学研究51号、早稲田大学創造理工学部、2011)を参照すると、

 1969年、ペレックはのちに『場所』と呼ばれることになる企てを開始する。 パリ市内から自らの人生と深く関わる十二の場所を選び出し、毎月二箇所ず つ描写していくという試みである。二箇所のうち、一方は現場で行い、もう 一方は描写対象とは別の場所でもっぱら記憶だけをたよりに記す。付随して 甦ってくる思い出もすべて書き留めるようにし、書き終えると封筒に入れ封印してしまう。どの月にどの場所を描写するかは、のちに『人生使用法』(1978) でも使われることになる特殊なアルゴリズムによってあらかじめすべて決められていた。これを十二年間、すべての場所が、〈現場での描写〉と〈思い出〉 として二度ずつ、十二回記述されるまで続くはずの計画だったが、実際には 1975 年にこの企画は放棄され、草稿だけが残されることになる。 残された草稿の中には、ペレックが両親ともに幼少期を過ごしたヴィラン通りの〈現実描写〉も含まれている。ペレックはここで人生最初の幸福な 数年間を過ごし、そして、彼の母親や祖父母はまさにこの場所から収容所へ と送られている。ヴイラン通りはペレックにとって自らの起源をしるす場所であると同時に、「消滅」を換喩的に示す場所ともなっているのだ。(p.2)

という。ここで塩塚が解説している『場所』という作品は、もともとは「モーリス・ナドーへの手紙」(『家出の道筋』酒詰治男訳、水声社、2011、収録)でその計画が明らかにされたものだ。『場所』の計画自体は頓挫してしまったのだが、この残された文章はまとめれ、「ヴィラン通り」として雑誌に掲載された。同じく『家出の道筋』で邦訳を読むことができる。この短編によると、 ペレックは定期的にかつて暮らした通りを訪れ、その様子を記録している。

24番地(ぼくが暮らしたのは7番地ではなく、ここだ。ヴィラン(Vilin)通りの7番地に住むなんてうんざり(vilain)だ) まず二階建ての建物。 一階には締め切りの戸口。 まわりにはまだペンキの跡が残っていて、 上には完全に消えていない 「美容室」という標記。*2

両親そして自分自身が暮らした場所でさえ、外見を描写するだけだ。ペレックの淡々とした通りの描写を、塩塚はこんなふうに分析している。

全六回のヴイラン通り訪問を通じて、ペレックは主観的な感慨はほとんど 記していない。しかし、客観的な描写から、「喪の作業」を遂行する、暗く、 沈んだ町の姿が浮かびあがってくる。そこには、かつての自分自身を彷彿とさせる子供が暮らし、年老いた母のような婦人が自分を見つめ、実際に母のことを覚えている女性まで住んでいるのだ。感情を排した客観的な〈現実描写〉 から、それでも「核心的な何か」が伝わってくるのではないか。(前掲論文  p.7)

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ところで、INAのサイトでヴィラン通りを訪れるペレックを見つけた。ペレックの作品そのままに、かつてのヴィラン通りの様子が少しだけ伺える。



53秒くらいから映る建物が、多分ペレックの母が勤めいていた美容室だと思う。 この美容室については、「ヴィラン通り」だけではなく、『Wあるいは子供の頃の思い出』でも言及されている。

二十四番地では、通りに側に閉鎖された木の戸口があり、その上には「美容室」の標記がまだなんとか読み取れた。ぼくが小さかった頃、通りは木で舗装されていたように思う。たぶんどこかに、立派な立方体の舗装木材が山のように積み上がっていて、それを使ってぼくたちもシャルル・ヴィルドラックの『バラの島』の登場人物たちのように小さな砦や車を作ったりしたのだろう。(『Wあるいは子供頃の思い出』第10章)

こちらの作品では、淡々とした記述からは少し離れ、自分の思い出に多少引きつけて書いている。もっとも思い出といっても、本で読んだ挿話を自らの記憶として無理やり目の前の光景に埋め込んでいるようにも思える。この取ってつけたような嘘くさい「思い出」が『Wあるいは子供の頃の思い出』の特徴なのかな、と思った。



ヴィラン通りやベルヴィルの路地をぶっ潰してできたベルヴィル公園からはパリの街並みが一望できた。公園には晴天の中のどかな休日を楽しむ人たちであふれていた。悲しい歴史も、貧しい思い出、再開発にともなう破壊の痕跡も、何も感じられない。場所の記憶って、きちんと残しておかないときれいサッパリなくなってしまうんだな、と思った。 もっとも、貧しいヴィラン通り*3をそのままの形で残すのは難しかったのだろう。再開発に伴う破壊と時の経過は確かに残酷だけれど、今となってはそれを否定することもできない。それでも、ペレックの作品は残っているし、多くの人がその作品を愛し、地元の図書館の壁画にまでなっている。そう考えると、作品の暗い背景とは裏腹に、この日の天気のように爽やかで、なんとも嬉しい気持ちになった。


*1: 素朴な疑問だけど、なんでストーンズなんだろう?
*2:手元に「ヴィラン通り」の原書がなかったので、フィリップ・ルジュンヌ『記憶と迂回』(P.O.L,1991)のp.186に載っていたバージョンを訳出した。こちらを利用したことに、特に意味はないです。あえて言うと、いろいろバージョンがあるみたいです。
*3:こちらのサイトにかつてのヴィラン通りの様子を伝える多数の写真が掲載されている。


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